第一章
私は大学を卒業後、大手町にある上場企業に就職した。
新入社員でありながら本社勤務だった。
皇居が見渡せる地上十九階のフロアでの勤務だったため、いくらかの胸躍る感じもあったが、自分にとって本社勤務は大きなプレッシャーとなっていた。
それは同じ事業部内への新入社員の配属は私ひとりだったからである。
事業部は五つの課があり、総勢六十名ほどの大所帯ということもあった。
女性は定時の九時に出社し、定時の五時に帰宅。若しくは残業が一時間ほど。
当然と言えばそれまでだが、男性は全く違う。
男性社員は暗黙の了解の中で、早朝出勤と夜遅くまで残業をしていた。
本社の仕事というのは、全国に散らばる支社や支店のフォローを朝の九時から行っていて、夕方五時を過ぎてから自分の仕事をするということが定説のようになっていた。
独身寮までの道程は約一時間弱。帰宅時間は夜中の零時~一時頃。
朝は六時頃に起きて出社に備える。
独身寮では朝食と夕食が準備されていたが、いつも時間外だったため殆んど食べたことがなかった。
慣れるまでは毎日が肉体的にも精神的にも疲れきっていて、睡魔までもが容赦なく襲ってきた。
トイレに行く振りをして便座に座り居眠りをしていることが日課となった。
半年もすると結構馴れるもので、睡眠時間四時間が普通となった。
大手の企業というものは、つまらないと感じてきたのもこの頃。
中小企業に入社して最前線で働きたかったと後悔したものだった。
入社して十一ヶ月が過ぎた二月中旬、同じ課の女性社員から「お母さんから三番に電話ですよ」と言われ、珍しいことも相まって別のボタンを押してしまった。
慌ててしまって三番を押すまでに僅かの時間がかかった。
その少しの間が嫌な予感を発した。
運悪く、それが的中してしまった。
父が脳梗塞で倒れたと言うのだ。
上司に事情を説明し、数日間の休みをもらった。
会社を後にし、急いで新幹線に乗って入院している地元の病院へと向かい、久しぶりに故郷の地を踏んだ。
父が倒れたから故郷に戻ったということが自分の心を痛めた。
会社を三社経営していた父は、威厳があってとても頼もしく見えていたが、病院のベッドでは考えられないくらいに弱々しくなっていた。
薄暗い病室の中で、生まれて初めて弱い父を見た。
とてつもなく嫌なものを見た感じがした。
自分自身、弱々しい父を決して認めたくはなかったと言う気持ちもあった。
数日後に体調も良くなり、症状も軽度だったため、身体に重度の麻痺など生活に支障が出るようなものはなかった。
ただ顔の半面に麻痺が残り、表情が読み取れなく言葉もよく分からなかった。後遺症の顔面の麻痺によるもので、暫くはこのような状態が続くと言われた。
このような状態だった為、退院後はしばらくは自宅療養となることも医師から伝えられた。また、言葉を聞き取る時には耳を父の口元に寄せるように指示をされた。
医師の説明の後で病室に行くと、父が力を振り絞り私に手招きをした。
何か言いたそうなので父の口元に自分の耳を寄せた。
「もう俺には会社の経営はできない」と父が私に言ってきた。
「お前が会社を支えてくれ」とも言われた。
野太かった父の声は、とても細くて聞き取ることが困難だった。
自分の勤めている会社のこともあって、即答はできなかったが、既に心は決まっていた。
「何もできない俺が、どうしろって言うんだよ」と心が叫んでいた。
しかし、父の姿を見てしまったら「できなくてもやるしかない」と強く自分に言い聞かせた。
そして、社会人一年生の未熟者が無謀な挑戦を始める。
私は大学時代に様々なアルバイトを経験し、浅く広くではあるが世の中の処世術を幾らかは学んできたとは思っていた。
そのような考えの中でも私は、自分の考えや行動、精神面が脆弱であるという自己認識はしていた。
父が築いてきた会社は小さな輸送船を巨大な軍艦に見せるような経営手法だった。私にとっては怖しい未知なる世界だった。
僅か三十名程の正社員にパートタイマーが十名程の中小企業。
大きく見せかけること自体、自分にとっては荷が重すぎることは重々わかっていたことだが、父と同様に会社を世間に見せることが必要だった。
それは間違いではないかと感じてはいたが、未熟者の私は必然なのだと強く思い込んだ。父同様に世間に振る舞い、会社を守ることが使命だった。
僅か十四万人の都市では噂が広がるのが早い。
父の病気や後継者である私の噂話など様々な声が外野から入ってくる。
それに負けないようにと強気を貫き通さなければならなかった。
現在の量販店のように次々と新たな手を打たなければならない状況があった。
そのため、本業以外のことも次々と展開していった。
その甲斐もあり、なんとか会社が躍動しているところを世間に見せることができた。無理をしてでも巨大な父の威厳という亡霊と向き合って戦わなければならなかった。いくら頑張っても勝ち目があるとは到底思えなかった。しかし、自分にとっては終わりなき戦いだと感じていた。
ニ年も経つと世間では「息子がやっても変わらないな」という声も出てきた。
人口の少ない地元では目立つ者が落ちていくのを期待しているところがある。そのような時には「あれがいけなかった」とか「これがいけなかった」などと、自分自身の持論も加えながら様々な話を作っては酒の肴にしている。私の悪い噂話が聞こえてこないのは、まだ落ちぶれていないと見ているのだろう。
次第に「息子は新しい発想もあって若いけどやり手だよ」と言う話も聞こえてきた。この声には少しばかりの警戒心を持った。
街の経営者たちは私に見入ろうと様々な集まりの場で挨拶をしてきた。
今まで近寄りもせずに軽蔑の目で私を見定めていた年上の熟練経営者たち。
私には掌を返したようなその変化がとても気持ち悪く感じた。
未熟でもありながら世間の見立ては立派な社長に見える。
自分に実力が無いのに世間は勝手に過大評価してくる。
新聞の地方紙や全国紙の地方欄では毎月のように大きく取り上げられ、県内の経済誌の表紙も飾ったり、独占のインタビューなど掲載された。
いくつもの講演会を県内の団体から依頼され、地元の寵児とも言われたりした。
賞賛されることは普通では喜ばしいことだが、私は賞賛されることが恐かった。
自分自身が見せかけの実力と思っていたので、世間から認められたいと思う反面、後ろめたい気持ちが大きな黒い渦を巻いて押し寄せてきていた。
この頃、学生時代から付き合っていた女性と結婚した。とても美しく可愛らしい女性で、学内のアイドル的な存在だった。
一年後には子供も生まれ、会社の経営など不安な部分もあったが、その時は自分と家族が幸せの絶頂にいると確信していた。
しかし、その確信は間違っていた。
社長になって三年目にバブルが弾けた。
メインバンクであった地方銀行は運転資金を貸し渋るようになり、会社の経営は転げ落ちるように悪化して行った。
以前は必要もない貸付を毎月割り当てのようにしてきたのに態度は一変した。
この時から毎月の資金繰りをどうするのか考える日々が続いた。
社員をリストラしようと考えたが、今まで会社に貢献してきた人々の生活を奪う権利が自分には無いと思っていた。
リストラはできなかった。また、事業の規模縮小も二の足を踏んだ。
「世間に会社を大きく見せなければいけないのだ」頭の中で繰り返していた。
そのような浅い考えに固執していたことが、経営の財務を弱くしていった。
「父と同じ考えで経営しているのに、私と父とは何が違うんだ」
毎日が自分と父の違いについての葛藤で心は苛まれていった。
「全てを父と同じにする必要はない。独自の考えを新たに生み出そう」
このことが自分を間違った方向に向かわせていたように思う。
そして自分の中で如何わしい考えが浮かんできていた。
>>> to be continued